愛宕山 地蔵院 浦 芳誠さん┃地域に根づいた活動を通じて唱える手を合わせることの大切さ(前編)

毎回、様々なジャンルで活躍する方達へお話を伺っている【地元の人に聞いてみた】のコーナー。今回は愛宕山の麓で愛宕神社への参道の途中に位置する愛宕山 地蔵院の浦 芳誠住職にお話を伺ってきました。

ー本日はよろしくお願いします。

 

浦 芳誠さん(以下、「浦住職」):よろしくお願いいたします。

 

ーまずは簡単に自己紹介を御願いします。

 

浦住職:愛宕山 地蔵院で住職を勤めております浦 芳誠と申します。

 

ーありがとうございます。まずは地蔵院さんの基本的な教えなどについてお伺いしてもよろしいでしょうか?

 

浦住職:ここ愛宕山地蔵院は高野山真言宗のお寺になります。真言宗は弘法大師空海の理念を伝えていっているもので、仏様に対して拝む、つまり仏様に手を合わせて先祖を敬ったり自身の業を取っていただく事で心をきれいにして自ら仏になるというのが基本的な考えになります。

 

ー自ら仏になるというのは自分が仏様になるということですか?

 

浦住職:そうです。真言宗には『即身成仏』という考えがあり、生きながらにして自身で悟りを開き仏になるという考えがあります。私たちの中ではお大師様は今でも生きていらっしゃる、この衆生を救ってらっしゃるという理念なのです。

 

ーなるほど、ちなみに真言宗のお寺というのは全国各地にあるものなんですか?

 

浦住職:お寺は全国各地にあります。ただ浄土宗や浄土真宗など他の宗派に比べるとお寺の数や門徒さんの数も少なく、小さなお寺ばかりです。というのも真言宗はもともと秘密仏教いわゆる密教なんです。教義は弘法大師の空海が拓いて全国に広まっていきましたがもともとは貴族仏教だったため、民衆の中には広まらず将軍様やお代官様といった貴族の間で広まりました。昔は士農工商という身分制度があり人口の比率でいうと位の高い人の方が人口が少なくなっていきます。例えば農民の数を10とすると商人が5、武士が3といったようになり少なくなっていきました。そのため現在においても真言宗が広まっている門徒さんの数で言うと、他の宗派の門徒さんの数が100だとすると真言宗は10にも満たないくらいの数になります。

 

ーそんなに少ないんですね。この地蔵院はいつからあるお寺になるんですか?

 

浦住職:このお寺の前身は地蔵堂でした。日切地蔵というお地蔵様がいらっしゃんですけどそのお地蔵様を祀っていたお堂でした。それを先々代の住職が整備されてお寺の建物自体が建てられたのが昭和30年~40年代で今では50年以上経過しています。 

 

ー比較的新しいお寺になるんですね。とは言っても建てられて50年以上も経過しているのにとってもキレイにされていますね。

 

 

 

浦住職:私がこちらに移ってきたときに畳を全て入れ替えたり納骨堂も全部綺麗にしたんです。というのも納骨堂は昔ながらの納骨堂でベニヤ板で出来ていて湿気で波打っているような状態でカビの匂いも凄かったんです。檀家さんの事を一番に考えた時にこれは一度綺麗にした方が良いと思いやりました。先代の住職が残されたお金があったおかげで新たに寄付をお願いする必要も無かったので檀家さんには非常に喜んで頂けました。

ーこちらに移ってこられたということですがもともとは違うお寺にいらっしゃったということですか?

 

浦住職:そうですね、元々は私の実家で父が住職を勤める博多区の神谷町の大圓院というお寺で住職を勤めていました。5年前にここの先代の住職が亡くなられた際に、跡取りがおられないということでこちらに移ってきました。

 

ーそうだったんですね。元々先代の住職と親交があったんですか?

浦住職:父が先代と親しくさせていただいていました。先代が亡くなる前に総代を含めて跡継ぎをどうするかというお話を致しました。父から私にお話しを頂いて、実家のお寺もそんなに大きいお寺では無かったため父と私の2人も住職はいらないってことで、いろいろ顔合わせをして話し合いをして行くうちに先代と総代さんからご理解を頂いて話が進み、私が地蔵院を継ぐことになりました。

 

ー移ってこられるってなった際に不安などは無かったんですか?

 

浦住職:お寺からお寺に移ってきたわけなのでそんなに差し障りもなく不安などもありませんでした。実家のお寺では父が中心となって動いていましたが、こちらに移ってきたことでこんな言い方をすると失礼になるかもしれませんが私が好きなようにやらせて頂けるようになったのは良かったです。総代さんたちも非常に協力的でとてもありがたかったです。

 

ーなるほど、それでは門徒さんとの関係も良好だったんですね。

 

浦住職:移ってきて喜んでくださった檀家さんはいらっしゃいました。ただ、皆さん全員が同じ気持ちではないでしょうから逆に思われていらっしゃる方もおられたとは思います。実際にお盆お彼岸のお参りに行くに当たって、もう来ないでいいよとおっしゃられた方もいらっしゃいました。それはそれで仕方ないのかなと思っています。私としては今自由にやらせていただいているのでとてもありがたいなと思っています。

 

ーありがとうございます。それではここからは住職のこれまでの足跡を辿っていきたいと思うのですが住職になられるための修業はいつ頃されたのでしょうか?

 

浦住職:私は高校生のときまで福岡にいました。卒業して和歌山県にある高野山大学という真言宗の大学に入学し大学の4年間で住職になるための修業をして資格を取りました。

 

ー修行というのはどういったものなのでしょうか?

 

浦住職:私たちの中では皆さんに言えない部分が沢山あって非常に表現しづらいのですがまずは僧侶として得度(とくど)という儀式を行って仏門に入るのです。次に授戒(じゅかい)と言って戒律を授かります。そこから加行(けぎょう)というものを100日間行います。この加行というのがいわゆるお坊さんになるための修業期間になります。100日間、道場に籠って早いときで朝の2時半に起床して夜の9時には就寝する生活を続けます。その期間は肉は食べませんしニンニクや玉ねぎのような匂いのする食べ物も食べません。

 

ー聞いているだけでとてもきつそうですね。

 

浦住職:高野山真言宗の本山は高野山金剛峰寺で私は高野山で100日間修業をしました。この修業を終えると伝法灌頂(でんぽうかんぢょう)と言って初めて師匠から一人前のお坊さんとして認めてもらうことが出来るんです。得度・授戒・加行・伝法灌頂の4つの段階のなかで作法を学びます。これは一般の方へ向けたものや一般の方には教えてはいけないもの全てになります。

 

ー私たちが知ることのできない住職しか知りえない作法があるわけですね。

 

浦住職:私たちが皆さんにお伝えできることは例えば仏様の真言やどういった功徳があるのかなどになります。皆さんにお伝え出来ないこととなると言えない部分になるので言葉を濁しながらにはなりますが例えばお葬式の際には一般的にはお坊さんが来て読経をしますが、真言宗はそれに加えて亡くなられた方をあの世に送る作法というものがあります。亡くなった方をあの世に送るに当たって色々な印や言葉があるのですがこれらが皆さんにお伝え出来ない秘密の部分だったりします。

 

 ーなるほど、それらの作法などを大学在学中に学んだというわけですね。大学を卒業されてから福岡に戻ってこられたのですか?

 

浦住職:いえ、大学を卒業してからまず一年間は師匠のお寺で修業をしました。というのも卒業する年に私の師匠が高野山で最も位が高い方になられてその師匠から1年間お寺で奉公しないかというお話を頂きました。

 

ーそれでそちらのお寺に行かれたということですね。

 

浦住職:そうです。在学中にもとてもお世話になった方ですので1年間修業をさせていただきました。

 

ー修行をされた後はどうされたんですか?

 

浦住職:師匠の所での修業を1年して福岡へ帰ってこようかなって考えていた時に師匠の息子さんが高野山大学の教授をされていた大学でしばらく働かないかと誘ってくださって父と相談して実家のお寺は小さなお寺なので2人も住職は必要ないってことでお誘いを受け高野山大学で働き始めました。

 

ーなるほど、どのくらいの期間働かれたんですか?

 

浦住職:高野山大学では15年ほど奉職させて頂きました。大学では事務方で働いていて特に授業を持ったりすることは無かったのですが私も大学の4年間で学んだ得度・授戒・加行・伝法灌頂などの行事の指導員や監督・入試の説明書を作ったりなどしていました。

 

ー高野山大学で15年ほど勤めて福岡へ戻ってこられたのでしょうか?

 

浦住職:そうです。息子が幼稚園から小学校に上がる年で私もやっぱり生まれ育った福岡が良いなと思うところがありこの機を逃すと福岡へ帰ってくるタイミングが無くなりこのままずっと高野山で過ごすことになると思い、高野山大学を退職して福岡に戻ってきました。

 

ーそうだったんですね。それではそこから福岡での生活が始まったんですね。前半はここまでとさせていただきます。後半では福岡に戻ってこられてからの事を伺っていきたいと思います。

 

浦住職:ありがとうございました。

 

 

 

ーありがとうございました。

高野山 真言宗 愛宕山 地蔵院

浦 芳誠さん

愛宕山の麓に位置する高野山 真言宗のお寺【愛宕山 地蔵院】で住職を勤める。手を合わせることで先祖への感謝の気持ちを大切にすることを唱え、地域を盛り上げるために様々な活動にも従事している。