再開発や法律の改正など様々な時代の流れに逆らえずに衰退していった酒屋業界のなかでうまく時代の流れに対応し未だ姪浜の地で操業を続けている 酒商高山。そんな酒商高山の2代目社長の高山嘉哲さんにこれまでの歴史や姪浜の魅力を語っていただきました。
ー本日はよろしくお願いします。
高山嘉哲さん(以下、「高山」):よろしくお願いします。
ーまずはお店と言いますか会社の成り立ちについてお伺いしたいのですが創業はいつになられるんでしょうか。
高山:お店が始まったのは昭和40年の8月やね。西暦でいうと1965年なんで55年前やね。
ー55年というももう半世紀以上操業されているってことですね。ということは高山さんの先代がいらっしゃるということですか?
高山:そう、自分が2代目で自分が小学生のころに父親が始めたんよね。今は親父が株式会社高山商事の取締役会長が親父の禮而、代表取締役社長が自分、常務取締役が弟の啓、監査役に母の清子の4人で会社が成り立ってる。
ーなるほど、お父さんは初代で現会長ということでご家族で会社を切り盛りしているわけですね。
高山:いやいや、両親はもうほとんど経営には関わってないかな。今は自分と弟と自分の息子でやっていきよるよ。
ーお父さんは酒屋を始められる前は何をされていたんですか?
高山:最初は質屋をしよったんよね。ほら高山質屋ってあるやろ?あそこがもともと自分のじいちゃん、やってて親父と親父の弟、つまり叔父がやってて親父が抜けて叔父が継いだんよね。
ーあの高山質屋ですか?!めちゃくちゃ有名企業じゃないですか!
高山:そうそう、それで親父が質屋をしたくなかったみたいで自分で洋服屋を始めて、そこから酒屋にシフトチェンジしたんよね。
ーなぜ酒屋に?
高山:当時、酒屋業界ってものすごく景気が良かったんよ。今は姪浜にはうちともう1軒くらいしかないけど当時は20軒以上の酒屋があったんよ。それで始めたんやと思う。
ーなるほど、創業当時からずっとこの場所でやってるんですか?
高山:そうやね、創業当時からここやね。ただ2回建て替わってるからこの建物は3代目やね。
―55年のうちに2回も建て替えてるんですか?!すごいですね!
高山:前の建物の時までは目の前の通り(明治通り)の真ん中くらいまでがうちのお店やったんやけど、街の再開発で道路拡張にうちの土地が引っかかって建て替えざるを得んかったのよね。
ーなるほど、以前のお店の写真ってあります?
高山:初代の写真はないけど一つ前のならあるよ、これ。
ーえぇっ!飛行船ついてる!驚
高山:すごかろ?(笑) とにかく目立たせるためにつけたんよ、ひとつの広告塔やね。
ーこれすごいですね、今風にいうならインスタ映えまちがいなしじゃないですか
高山:これを見に来てお酒を買っていくお客さんは多かったよ、新聞社とかも取材に来たりしてくれて宣伝効果は抜群やったね。
ー酒商高山が小学生の頃にお父さんが始めたということでしたが高山さんが仕事を始めたのはいつ頃だったんですか?
高山:大学を卒業してからやね。学生の頃も手伝いはしよったけど本格的に仕事を始めたのは。大学卒業してすぐやね。
ー他の会社に就職するっていう考えはなかったんですか?
高山:なかったね、というか自分が手伝わんと回らんくらいあの頃は忙しかったんよ。
ーなるほど、仕事を始めた頃に苦労したことってありますか?
高山:うーん、とにかく忙しかったね。ほんとご飯食べる時間もないくらい朝から晩までがむしゃらに働きよったかな。飲食店やら個人宅やら沢山のところに配達に行かないかんかったからね。
ー休みとかはどうでした?
高山:日曜日はお店が定休日やったけん週1回の休みはあったよ。あの頃の忙しさで休みが無かったら過労死しとったと思う(笑)
ここでなんと高山さんのお母さんで株式会社高山商事の監査役でもある高山清子さん(以下、「清子」)が取材に加わってくださり一緒にお話を聞かせてくださることになりました。
ーここまで高山社長に酒商高山の成り立ちなどを伺ってきました。創業当時から現場で先代社長を支えてきたお母さんならではのお話をお聞かせいただけると幸いです。よろしくお願いします。
清子:よろしくお願いいたします。
ー清子さんにお伺いしたいのですが、創業当時の酒商高山はどうでしたか?
清子:とにかく忙しかったですね。創業当時は個人の方と飲食店への販売と角打ちをやっていたんですが、引っ切り無しにお客さんがきてがむしゃらに働いていました。
ー角打ちしてたんですね!
清子:あのころは安定所にいって日銭を稼いで240円くらいもらってくる労働者の方たちが沢山いて仕事帰りに来てくれてたんです。で、そういう人たちって大酒のみの人がとっても多くてどんだけたくさんお酒を用意しても足りなくなってました。
ーなるほど、仕事で疲れた人たちのリフレッシュの場になってたんですね。
清子:そうですね、ただお客さんたちがみんな疲れた顔をしてたんで、何かお客さんにしてあげられないかなって考えた時に当時は今みたいに普及してなかった有線放送を付けたんですよ。そしたら有線放送から流れる陽気な音楽がマッチして喜んでもらえました。それで当時の近くのバス停の前に『有線を聞きながら角打ちをしよう!』って謳った看板を設置したらこれまで来られることが無かったサラリーマンの方々の目に留まってさらにお客さんが増えましたね。
とにかくたくさん仕入れてたのでお酒のメーカーさんもサービスでお酒をくれたりするので景気は本当に良かったです。
ーお客さんを第一に考えた気持ちががお客さんたちに伝わったんですね。
清子:みなさんのストレス発散の場所になれてたんだったら嬉しいですね。
ー創業当時からずっと好調だったんですか?
清子:角打ちでものすごく好調でした。けれど本当の意味で好調というか軌道に乗ったのは10年くらい経ってからだと思います。酒屋としての基盤は10年経って出来上がったと思いますしこの基盤があったからこそ今も会社が続いてると思います。
ーお話を伺っていると角打ちで軌道に乗っているようにも思えるんですけど本当の意味での軌道とはどういう意味でしょうか?
清子:角打ちはものすごく盛り上がっていましたけど流行り廃りのある一過性のものだと思っていました。なので角打ちだけに執着せずの飲食店や個人の方への卸を地道に続けて安定した収入の確保をしていきました。お客さんに対してきちんとしたサービスを提供することで口コミや紹介につながって顧客拡大をしていったんです。そのおかげで10年経つころには地盤が固まって、角打ちブームが去っても問題なく事業を運営することができました。
ーなるほど、地道な作業が会社を安定させる地盤を作り上げたんですね。
ー創業当時は20軒以上あったという酒屋が現在は2軒ほどに減ったということでしたが酒屋業界が衰退した理由って何なんですか?
高山:1番の原因は酒類販売の免許制度が変わったってのが一番やね。
それまでは人口や既存店との距離なんかで新規出店に規制がかけられてて簡単に酒屋を出店することができんかったんよね。
それが1988年に法律が変わって新規出店の壁がしやすくなってそれに伴って大手のスーパーマーケットやディスカウント店がどんどん参入してきたんよ。するとこれまで安定してた値段が安売り合戦が始まったことによりどんどん値崩れしていって、体力のある大手が生き残っていってこれまでのやり方では通用せず辞めたり倒産するところが続出したんよね。
ーそんななか酒商高山は生き残ってきたと。他が淘汰されていく中で生き残れたのは理由っていうのはなんですか?
高山:飲食店と個人の方への卸し業務を地道に続けてしっかりと地盤を固めていたことが主な要因だと思う。特に飲食店さんへの卸をしっかりとして売り上げのメインへとシフトチェンジしていたおかげで個人のお客さんがスーパーやディスカウントストアなどの安売り店へ移っていってもさほどダメージが無かったのは大きかったかな。
清子:あとは主人がいろいろと動き回っていたのが大きいです。
とにかくいろいろとアイデアを出しては動いていました。
いろいろな地元の会合に出席しては会社や飲食店の経営者とつながりを作って仕事を取ってきていて特に印象的だったのはPTAの会合に出席した際に小学校の給食室をみてひらめいたらしく、小学校の給食室に料理酒を卸すって言いだして、申請して実際に仕事を取ってきたのには驚きました。約130校に提供することになりました。
ーとてつもないバイタリティーですね。とにかく行動することで衰退していく酒屋業界のなかで一つ抜きんでた存在となるんですね。
ということでここまで酒商高山の創業期についてお伺いしてきました。
後編では現社長の高山嘉哲さんが2代目に就任してからの歴史を紐解いていきたいと思います。
こうご期待下さい。
株式会社 高山商事 代表取締役
高山嘉哲さん
姪浜で長きに渡り『酒商高山』を切り盛りする2代目社長。姪浜中央商店会の会長として姪浜の街を盛り上げるための地域活動にも貢献し陽気な人柄から姪浜の名物社長として有名。
【酒商 高山】
住所:福岡県福岡市西区姪の浜1-15-25
TEL:092-881-0870
営業時間:9:00~20:00
定休日:日曜日